盗人にも五分の理を認める

今日は久しぶりに徹夜中。22時に16時からぶっ続け2コマの授業が終わり、翌日9時からのアントレ・ファイナンス勉強会に向けてケースを分析中。今一応一個終わったのでちょっと休憩。

先日のムカっ腹の記事には反響が多かったが、水曜の授業の合間にHb氏と話をしたところ、久しぶりにカーネギーを読みたくなった。しかし、これまで3度読んで3度とも感動した割りには身についていない。そこで今回はただ読み通すのではなく、ポイントをまとめていこうと思う。皆様にも何らか参考になれば幸い。

人を動かす 新装版

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PART 1: 人を動かす三原則
1 盗人にも五分の理を認める

どれほど自分が正しくても/正しいと思える場合でも、人を批判、非難することはよしたほうがいい。苦情も言わない方がいい。なぜなら、相手は自分を弁護したり(「そうするしかなかった」)、批判者を恨んだりして、何ら原因となった事態が改善しないというのが関の山だからだ。行動の誤り、態度の誤り、責任の欠如等だけでなく、能力の不足、欠如についても責めない。徹底的に相手の立場に立って考える。「もし自分が相手だったら、同じ行動を取っただろう」と。

自分の家の玄関がよごれているのに、隣りの家の屋根の雪に文句をつけるなと教えたのは東洋の賢人孔子である。(p.26)

死ぬまで他人に恨まれたい方は、人を辛辣に批評してさえおればよろしい。その批評が当たっていればいるほど、効果はてきめんだ。(p.27)

およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得ておかねばならない。(p.27)

若いときは人づき合いがへたで有名だったベンジャミン・フランクリンは、後年、非常に外向的な技術を身につけ、人を扱うのがうまくなり、ついに、駐仏米大使に任命された。彼の成功の秘訣は「人の悪口は決していわず、長所をほめること」だと、みずからいっている。(p.27)

人を批評したり、非難したり、小言をいったりすることは、どんなばか者でもできる。そして、ばか者にかぎって、それをしたがるものだ。理解と、寛容は、すぐれた品性と克己心をそなえた人にしてはじめて持ちうる徳である。(p.27)

人を非難するかわりに、相手を理解するように努めようではないか。どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また、おもしろくもある。そうすれば、同情、寛容、好意も、おのずと生まれ出てくる。すべてを知れば、すべてを許すことになる。(p.32)

こうしてみると、件のケースではやってはいかんことをモロにやっておりましたな。
あはは〜
まあ、また元の仲良い状態に戻ったし、結果オーライということでひとつ。

ちなみに、この章の内容は「いかに敵を作らないか」「憎まれないか」という基本的な部分について語られているようだけれども、本当に難しいのは、その基礎の上に立った上で、「もし本当に能力のない人、無責任な人の行動を変えさせたり動かしたりしないといけないときはどうすればいいのだろう?」「仕事上の基準を満たすことのできない部下を前にしたとき、どのようにアプローチすればいいのだろう?」といった問いに答える方法を自分なりに考えることだと思うけれど、これは本当に難しいと思う。まだまだ全然答えは見つからず。