遺伝子の川

遺伝子の川 (サイエンス・マスターズ)

遺伝子の川 (サイエンス・マスターズ)

友人おすすめシリーズ第5弾。「利己的な遺伝子」も読んだことがないので、実はドーキンスを読んだのは初めてでした。しかし面白い。ところどころ難しくて(基本的な知識不足)理解できないところがありましたが、相当グッとくるものでした。


ドーキンス教授は、遺伝子=自己複製爆弾を生命の本質ととらえ、その自然淘汰のプロセスの中で論理必然的に地球の生態系が作り上げられてきたのであり、そこには「なぜ」この生態系がそうあるのかを問う余地はないと指摘しています。私たち人間は、なぜ、という「理由」や「目的」にとらわれて思考し、行動していますが、生命のプロセスには「比喩としての目的」が存在するに過ぎず、それらはすべて後付なのだと考えられるようです。


彼は徹底した無神論者(キリスト教的な創世観を否定)なのですが、彼の描く論理的な生命の歴史はそれそのものが美しく、壮大です。神も英雄も介在する必要のない一大叙事詩です。ドーキンス教授によれば、ダーウィンもまた生物学を深く追究していく中で無神論者となっていったそうですが、教授もまた同様の思考のあり方をきわめてwitに富んだ表現で示してくれています。

神の意図がアンテロープの死を最大限にすることにあるとしたら、チータの歯や鉤爪、眼、鼻、脚の筋肉、背骨、頭脳などのすべては、まさにわれわれの期待どおりのものである。一方、アンテロープの方をリヴァース・エンジニアリングすれば、まさに正反対の目的−すなわち、アンテロープの生存とチータの餓死−のための設計であることを示す同じように印象的な証拠が見つかるだろう。あたかもチータがある神によって設計され、アンテロープはそのライヴァルの神によって設計されたかのようである。そうではなくて、トラと子ヒツジを、チータとガゼル(アンテロープの一種)をつくったのがただ一人の造物主だとしたら、彼はいったい何をして遊んでいるのだろう?(p.154-155)

彼からすれば、「生命のただ一つの効用関数」は、つまり、「自然界で最大化されつつあるもの」は、「DNAの生存」だけなのであり、そこには何の目的も、設計も存在しないわけです。


このような世界や生命の理解の仕方は、例えば先日紹介したスピリチュアルな物語、「アルケミスト」などとは相容れない立場と言えます。つまり、ドーキンスの提示するコンセプトからすると、「自分が真に望むことを成し遂げようと強く願うと、全宇宙が協力してその夢の実現を手助けしようとする」なんてことは成立しようがないわけです。そして、私自身は、パウロ・コエーリョよりもリチャード・ドーキンスの方が明らかに好みであるようです。


ただ、この印象的な二冊を非常に近いタイミングで読んだことで、ふと考えさせられることがありました。それは、私はアルケミストで示されているようなコンセプトは、「そうだと素敵だな」と思いつつも「素直に信じることができない」というタイプなのですが、例えばご先祖のお墓参りや神社できちんと拝礼をすることなどは好きなわけで、それも形式的にではなくて、どうやら然るべく感謝や礼儀を示さなければならないのだと、心の奥深くでは(日本的な意味での)仏や神の存在を仮定した上での行動であるようです。

要するに、一見矛盾する無神論的な世界観と、日本の伝統的な「ご先祖様」観と「神様」観が自分の中で共存しているわけです。


何だかおかしな感じなのですが、よく考えてみると一応「論理的に」自分の中では共存しうる形でとらえているようです。つまり、ドーキンスのコンセプトや量子物理学で示される世界観は物理的な世界の話で、それは多分仮借のない物理的法則の中で奇跡的に、美しく、壮大に構成されてきたものである一方、物理的法則ではとらえられないような形而上的な世界あるいは存在もパラレルに存在しているのではないか、という風に考えているようです。例えば私たちの意識と脳の構造で言えば、脳神経系の物理的構造で説明できる部分と、出来ない部分、言わば魂とか霊魂と呼ばれる存在もあるのではないかと考えているわけです。


いつか脳神経科学がさらに発達し、意識の構造がさらに解明されれば、あるいは物理学がすべての世界の構造を解明しきってしまったときには、このような世界観も成立しえなくなるのかもしれません。もしそうなったら、おそらく宗教も哲学も一つのコンセプトで統合され、世界は大きく変わることになるのでしょうね(もう実は全部解明されていたりして!)。