戦争論3

新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論〈3〉

新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論〈3〉

小林よしのり戦争論三部作、ようやく読了。
結局この三部作で彼が試みたことは以下の3点に集約されるのではないかと思う。

帝国主義の時代から近代化の過程までを踏まえた上での日本がかつて戦った戦争の再評価。
②戦争及び戦後処理の過程で問われた「犯罪」に関する再評価。
③①②と密接に関係する現代日本における「公」のあり方の再構築。


戦争論3では、主に①のうち日本が戦争に至った歴史的流れの叙述(作品中では「侵略と収奪の世界史」と総括)と、③についての議論が中心となっている。

①に物語的に挑み、様々な論考や資料を提示しながら②を試みた戦争論1と2に比べ、3は議論がかなり粗い。1と2の②に関する論考は、他の情報をそれほど知らなければ十分に説得力を感じる内容だと思うが、3で展開される議論の多くはより知識レベルが低くても「おいおい」と思いたくなったり「?」が点灯したりする率が高い。

しかし、まあそれもそのはず、500年にわたる歴史を総括して一つの物語に仕立て上げているのだから、細部は厳密な検証がなされていないのもむべなるかな、だ。とりあえずミーハーな読み手としては、納得できる部分とそうでない部分を切り分けて読み進めておけばいい。


ただ、①②については自分なりに納得できるまで自分なりに時間をかけて追求していかなければ、と思っているが、③については概ね筆者の考え方には同意する。端的に言えば、人は自分自身の命を捨てても守るべきものがありうるという考え方である。本当にそうなのかどうかはわからないが、現代日本では「何はさておき、とにかく生きていることが大事」という考え方が支配的であるそうだ。しかし、それほど想像力を使わなくても、日常でさえ自分の命を犠牲にしてでも家族を守りたいと思う瞬間がありえることは想定できるし、そのために日本という国家を守ることに命をかけなければならないという事態も残念ながら発生しうる。世界はまだ、本当はそれほどフラットではないのだ。特にアメリカのイラク攻撃、北朝鮮のミサイル発射、イスラエルレバノン侵攻といった事態がたて続いている昨今では誰もが意識していることなのではないか、と思う。

もちろん、そんな事態にならないように全力を尽くさなければならないし、そんな事態になってもできるだけ犠牲が少なくなるようにすることはもちろんだ。ただ、そのうえで、ある種の「覚悟」は持つべきだと思うし、その「覚悟」は美しい心情だと思う。それが僕の「私」を超えた部分の「公」の意識だが、あくまで「自分の大切なものを守りたい」という「私」の意識に立脚している。「私」を守るために「私」を滅ぼす可能性も覚悟するor受け入れる、ということで、論理的には矛盾しているのだが、それを「美」と感じる心情がその矛盾という左脳的感覚を麻痺させているのかもしれない。

脱線するが、映画『ラスト・サムライ』で描かれたサムライの美しさはまさにそこにあるのだと思うけれど、それをハリウッドが描いたというのが興味深い。


最後に、日本の戦争はやむを得なかったのかもしれないしそうでなかったのかもしれないし、酷すぎることをしたのかもしれないしそうでもなかったのかもしれないし、やり方がかなり稚拙だったことは多分確かなことで、色々考えなければいけないことは盛りだくさんではあるけれども、僕は以下のような結果論としてのコメントにも結構シンパシーを覚えていることを否定できない。ご参考までに引用しておきたい。

15世紀のバスコ・ダ・ガマの到来を西欧のアジア支配の出発点と、とれば、日本はすでに戦争に勝利したといえる。日本の緒戦の勝利は冷酷に、ある意味では慈悲深く、欧米の植民地の存続期間を大きく短縮した。
イギリス・現代史家 クリストファー・ソーン(p.246)

第二次大戦によって、日本人は日本人のためというよりも むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられたような、不敗の半神でないことを明らかにした点である。
イギリス・歴史学者 アーノルド・J・トインビー(p.247)