ローマ人の物語19 悪名高き皇帝たち[三]

ローマ人の物語 (19) 悪名高き皇帝たち(3) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (19) 悪名高き皇帝たち(3) (新潮文庫)

日本人の価値観、もしくは、美徳に関する考え方、の中には、「誠心誠意尽くすことが美しい」というものが含まれているのではないかと思います。これは誤りではないし、おそらく普遍的な美の感覚を含んでいるのだと思いますが、どうやら、「誠心誠意尽くせばいつか理解してもらえる」とまで考えるのはナイーブでありすぎるようです。


悪名高き皇帝たち[三]の主人公は、第4代の皇帝クラウディウス。彼は暴君であったカリグラの突然の死を受けて、50歳ローマ皇帝となりました。それまでは歴史研究家として生きてきた彼は、即位後もその人格は変わらず、やるべきことに淡々と取り組んでいく、地味ではあるが着実な「歴史家皇帝」として生きたのでした。


彼自身の治績は、歴史家としての哲学や美意識、責任感に支えられた非常に立派なもので、カリグラの放逸によって傾きかけたローマの屋台骨もきっちりと支えきった評価されるべきものだったといえるでしょう。しかし、残念なことに、彼は3つの点でマイナスを被りました。それが彼の評価を大いに低下させてしまったのでした。第一に、第三代皇帝カリグラのために、国庫がほとんど空であったことに加えて、元々パフォーマンスに興味がないクラウディウスの性格のために、ローマ市民からは「ケチくさい」と不評を買うような緊縮財政を継続せざるを得なかったこと。第二に、二人の「悪妻」を持つこととなり、かつ、本人の甲斐性と関心の不足により、悪妻に翻弄され、市民から嘲笑され、ついには毒殺されてしまったこと。第三に、皇帝業を滞りなく進めるために設けた「秘書官」が必要以上に権力を持ち、元老院議員達から不評を買いつつも、それに気づくことがなかったこと(もしくは気づきながら放置したこと)。


カリグラやネロに比べれば、決して後世から被った悪評に値するような劣悪な皇帝であったとは言えない人物ではあるけれども、「皇帝」としての器に十分であったかと問えば必ずしもそうではなかった。それがクラウディウスであったのではないかと思います。その彼の皇帝としての欠点について、塩野七生氏は以下のように指摘しています。

だが、クラウディウス自身にも罪はあったのだ。敬意を払われることなく育った人には、敬意を払われることによって得られる実用面でのプラス・アルファ、つまり波及効果の重要性が理解できないのである。ゆえに、誠心誠意でやっていればわかってもらえる、と思いこんでしまう。(p.190)

愚直に「やるべきことをやる」というだけでは足りない。例えばクラウディウスの場合であれば、自分の妻や、手足である秘書官に対しても十分に威厳を示し、睨みを利かすといった、敬意を得るに足る重要なポイントは必ずおさえなければならないのだ、ということでしょう。カエサルアウグストゥスのようにパフォーマンスに長けていなくとも。


また、逆に、誠心誠意やりすぎるのもよくないと言えるかもしれません。クラウディウスは愚直にやりすぎて、毒殺される時点ですでに「燃え尽き」てしまっていたようです。最後にこの点についても筆者の印象的な言葉を引用しておきます。

反対にクラウディウスは、元老院にも律儀に出席しては討議は存分にしてくれるように頼み、法廷にも、皇帝には他に重要任務があるではないかという人々の悪評もよそに、陪審員たちから嫌われるくらいによく顔を出しては、法律の公正な施行に心をくだいたのである。このような生活を十年以上もつづければ、最後には燃えつきたとしても当然だ。殺されたのは気の毒だが、彼の死は、ときを得た死ではなかったか。死んで神々の裁きの場に引き出されたとしても、ローマの神々ならば同情してくれたろうし、アウグストゥスならばこのクラウディウスを、断罪などはしなかったであろうと確信する。(p.192)