経営倫理とパターナリズム

日本時間23日午後、日本では小泉首相の施政方針演説に対する代表質問が行なわれているようです。そこでの民主党前原議員の質問内容が少し気になったので記事を書きたいと思います。

議員の質問、批判のポイントは、先日の米国産輸入牛肉で危険部位が見つかった問題や耐震強度偽装問題について、いずれも政府が対米関係を重視して、あるいは「官から民への流れ」を重視して、輸入再開や規制緩和を拙速にやったからだ、という点にあります。

ひどく違和感を感じるのは、それは本当に政府の規制の有無の問題なのかな、というところです。要するに、先日のライブドアの記事とも共通しますが、米国産輸入牛肉の問題は明らかにアメリカの食肉業者が犯したミスであり、耐震強度偽装問題についてもコストを重視し過ぎた経営判断の問題であって、結局経営倫理の問題なのではないでしょうか。

また、2004年の関西電力美浜発電所での死傷事故や2005年の兵庫・尼崎のJR脱線事故もまた、同様に安全よりも効率やコストを優先した経営判断のミスによるものであって、その背景には経営倫理の問題が横たわっています。

しかし、これらの問題に際して、メディアや評論家、野党議員、時には与党議員の中からさえも頻繁に上がるのは、「政府の規制が甘かった」「政府に責任がある」という声です。もちろん、法規制に関して正すべき所は正すべきでしょうし、国の責任を問うべき部分は問うべきです。ですが、根幹にあるのはやはり経営倫理の問題であると思えてなりません。政府の責任を問うメディアや評論家が、普段は規制緩和をすべきだと声高に論じている場合が多いことを考えると余計に奇異に思えます。

日本は社会主義の国だ。

などと揶揄して言う人もいますが、気持ちは分かります。何となく、公権力に対してパターナリズムを求める傾向が強いのではないでしょうか。それでいて反権力的な性格が強いのも総体としての日本人の特徴のような気がします。

しかし、繰り返しになりますが、上記のような一連の問題の本質は、あくまで経営判断において何を優先させるかという経営倫理の問題であると思います。アメリカにおけるエンロンワールドコム、タイコの事件と本質は同じです。

今私たち日本人が真剣に考えていかなければならないのは、教育現場が崩壊に陥っていると言われる現状も視野に入れながら、いかに倫理、道徳、哲学といった人としての根幹を教育していくか、ということだと思います。

塩野七生さんはローマ人の物語の中で、「ギリシア人は哲学に、ユダヤ人は宗教に、ローマ人は法に」それぞれ道徳の基準を求めたと書かれていますが、拠るべき宗教を持たず、また法律にすべてを委ねるわけにもいかない私たち日本人が考えなければならないのは、ギリシア人のように、1人1人の哲学、倫理なのではないでしょうか。もちろん、特定の思想を植え付けるのではなく、1人1人に倫理や哲学を徹底して考えさせるような教育をする必要があるのではないでしょうか。

とともに、自分自身の哲学や倫理もきちんと考えていかなければ、と強く思う今日この頃です。