アメリカの規制型資本主義

市場対国家―世界を作り変える歴史的攻防〈上巻〉

市場対国家―世界を作り変える歴史的攻防〈上巻〉

第2章 巨大さという問題 −アメリカの規制型資本主義


アメリカの戦中・戦後経済運営の焦点は(戦時統制を除き)2つのポイントに置かれていた。①経済的規制と、②ケインズ的マクロ経済政策である。戦後、企業の国有化を一つの大きな柱としていたヨーロッパや発展途上国の政策とはこの点で大きく異なっていた。「アメリカはこれらの国にくらべて、市場経済志向が強かったのだ」(p.72-73)


1. 経済的規制の確立

連邦政府が経済的規制に初めて取り組んだのは、「経済開発が進んだ十九世紀に、当時の新興大産業、鉄道業を規制するために州際商業委員会(ICCが設立されたときである。」(p.73)

○さらに19世紀後半、先進工業国化の進む中で蔓延した「食料品の不潔さ、労働条件の劣悪さ、都市の汚染、企業の不正、政治の腐敗」等々の社会的病理への対策として、セオドア・ローズベルト等によって掲げられたのが「規制」だった。焦点は、企業の巨大化・独占にどう対処するか、であった。

○1912年、ウィルソン大統領の主任経済顧問に任命されたルイス・ブランダイスが中心的な役割を果たし、連邦準備制度連邦取引委員会が設立された。

その後何年か、規制の動きは止まった。好況を謳歌した一九二〇年代、・・・一部の例外を除き、産業界は不正とは無縁だと思われていた。ブランダイスが嫌った資本主義の頭目が英雄になり、政府の介入は少ないほど良いとされた。(p.77)

○しかし、1929年10月24日の株式大暴落により、信用秩序はことごとく崩壊し、「民主的な資本主義が生き残る保証」はどこにもなくなった。

○1933年3月に大統領に就任したフランクリン・ローズベルトの掲げた経済対策(「ニューディール」)は、当初は「産業界との「協調」と国家による経済計画」(p.79)が目指されていた。その中心に位置していたのが、産業再建局(NRA)である。しかし、「二年もたたないうちに、NRAは最高裁違憲と判断されて解体された。」(p.80)

このため、ニューディールは、新たな方向に進むことになる。国有化ではなく規制、集中と合理化でなく反トラスト、計画経済ではなく権限分散が採用された。こうして、市場を規制し、円滑に機能させ、ひいては資本主義を自滅から救うための制度が整備された。(p.80)

○具体的にこの時期に実現したのは、証券取引委員会(SEC)、連邦電力委員会、連邦通信委員会、民間航空局、全国労働関係局の設立、1935年公益事業持株会社法の成立、ICC連邦取引委員会の強化等で、その立役者は「規制の預言者ジェイムズ・ランディスであった。


2. ケインジアンの経済政策の採用

しかし、その後にまたしても起こった経済の緊急事態によって、規制の真価は問われないままになった。一九三〇年代後半、国民は不況の深刻化に注意を奪われ、規制への熱意を失った。政府が不況対策として選択したのは、このころに登場した新たな経済戦略、ケインズ主義である。(p.85)

○38年から40年にかけて、ケインズ理論に基づいた財政政策が採用されるようになった。「ケインズ政策が登場し、不況と国際的情勢の緊迫化に関心が集まったため、規制による政策は注目されなくなった」(p.86)。


3. 第二次大戦後の基本的な方向性

○物価統制局と戦時生産局による第二次大戦中の経済統制は非常に評判が悪かった。他方でヨーロッパと違ってアメリカでは資本主義が不人気ではなかったうえに、戦後好況にも見舞われた。そのため、完全雇用法案をめぐる議論のように、ヨーロッパのような混合経済政策を志向する議論も一部行なわれたものの、最終的には経済の拡大が最大の関心事となり、市場の発展を妨げるような国の介入は国民の支持を得られなくなった。

○そのため、戦後数年、経済規制制度に関して大きな動きはなかったが、各規制機関の内側では、既得権益化や非効率性、業務の肥大化が進行しつつあった。しかし、経済が好調なこともあり、規制のあり方は国民にとって特に関心のある問題ではなくなっており、関心の焦点はケインズ政策を通じた経済活動全体の管理へと移っていった。


4. インフレと失業率上昇、そして政策転換

○このような方向性の最後を飾ったのがリチャード・ニクソン政権だった。アメリカは60年代から70年代にかけて、インフレと失業率の上昇という事態に見舞われていた。また、ベトナム戦争の長期化を一因とする国際収支の悪化拡大によるドルの国外流出という問題も浮上していた。

○このような状況下で、ニクソン政権は金ドル交換停止と固定相場の放棄に加え、インフレ抑制策に精力的に取り組んだ。しかし、「国内の賃金物価上昇圧力、世界同時好況、ソ連での農作物の不作、原油価格の上昇」等の様々な要因が重なり、インフレ抑制は失敗に終わった(ただし、原油天然ガスの価格統制だけは残された)。

一九七〇年代後半のアメリカの病は、中東情勢やイスラム原理主義の影響、労働市場の硬直性など、さざまな要因が重なった結果である。二度の石油ショックは、世界経済に大きな衝撃を与えた。ベトナム戦争の後遺症で、国民に苦悩が残り、政府に対する不信を招き、政府と距離を置く姿勢が強まった。それでも、アメリカの病のかなりの部分は、それまでに数十年にわたって確立され、次第に政府寄りになってきた政府と市場の関係の結果だともいえる。インフレ率と失業率が同時に高水準になるのはかつてない事態であり、この点だけでも、事態を再検討しなおさなければならなかった。国が計画と管理を強化すべきだと主張する者もいたが、潮流は変わっていた。ハーバート・スタインはこう書いている。「この二十年間、政府支出、政府がとりたてる税金、政府の財政赤字、政府による規制、政府が管理する通貨供給量はすべて、増加の一途をたどってきた。そして現在、インフレ率は高く、経済成長率は低く、『自然』失業率は・・・・・・これまででもっとも高い。だとすれば、その原因は政府が拡大を続けたことにあり、問題の解決のためには、政府の拡大を逆転させるか、少なくとも止めるべきだと考えるのがきわめて自然である。(p.101-102)