感情とニューロサイエンス -Destructive Emotions(1)-

Destructive Emotions: A Scientific Dialogue with the Dalai Lama

Destructive Emotions: A Scientific Dialogue with the Dalai Lama

CH8: The Neuroscience of Emotion

*本書は、全編、ダライ・ラマと第一線の心理学者、脳科学者、仏教思想家等が一堂に会したセミナーの模様をダニエル・ゴールマンがまとめたものです。


Richard Davidson: ウィスコンシン大学のthe Laboratory for Affective Neuroscienceのdirectorであり、心理学を脳科学へと変貌させる動きの最先端にいる人。本章の冒頭では、ゴールマンと彼の出会いのエピソードや、いかにDavidsonが感情を脳科学の視点から研究する動きをリードしていったかが克明に紹介されており、興味深い。


(1) 脳神経科学の諸々のお話

前頭葉frontal lobe: 感情を制御する上で重要な部位。前頭葉と脳の他の部分との大きさの比率を比べた場合、人間のそれは他の動物よりかなり高い。したがって、人間の最も重要な性質は、感情を制御する能力であるのかも知れない。

頭頂葉parietal lobe: 視覚、聴覚、触覚等からの感覚が集約される部位。

扁桃核amygdala: 特に恐怖など、特定の感情にとって極めて重要な部位。destructive emotionsにとって中心的な役割を果す部位でもある。

海馬hippocampus: 出来事の文脈を理解する上で欠かせない役割を果す。海馬に問題がある場合、適切な文脈で適切な感情を表現することができなくなる。


この5年間の神経科学の発見の中で最も面白いものは、これらの部位が新しい経験や学習、記憶によって劇的に変化するということである(neural plasticity)。特に面白いのは、これらの変化が、遺伝子の発現にまで影響を与えているということである。つまり、最近まで信じられていた考え方とは正反対に、新しい神経細胞neuronは人生の全期間にわたって成長するのである。今までのところこれは動物でしか確認されていないが、人間についてもあてはまると信じるに値する多くの理由がある。具体的には、腎臓や心臓の細胞であれ、神経細胞であれ、幹細胞stem cellから新たに生まれるのである。


前頭葉はさらにたくさんの部位に分けられるが、ventromedial frontal cortex (両目の間の少し奥上辺り?)と呼ばれる部分が感情のコントロールにとって非常に重要である。この部分に損傷を受けた患者は感情を制御することができない。


前前頭皮質prefrontal cortexが感情の規制に大きな役割を果すのに対して、扁桃核は感情を呼び起こす回路の中で鍵となる。通常、これら感情をオンにする部分とこれをコントロールする部分とは同時に活性化される。


前頭葉扁桃核、海馬はすべて身体、特に免疫系、内分泌系、自律神経系と広範囲にわたって結びついている。この事実が、心がどのように身体に影響を与えるのかを理解する手がかりとなる。


人間の脳の左側はポジティブな感情に、右側は特定のネガティブな感情にとって、重要な役割を果すことを示す証拠がある。それぞれの感情が喚起されたとき、対応する脳の部位が活性化されることが実験によって明らかになっている。そして、他方の脳は全く反応しない。これはすべての右利きの人に当てはまり、ほとんどの左利きの人に当てはまる。


扁桃核は、恐怖の感情を発生させる役割も果すが、恐怖のシグナルを検知する役割も果す。例えば、様々な表情の写真を被験者に見せる実験では、恐ろしい顔の写真を見るだけで扁桃核が反応する。したがって、扁桃核に以上をきたしている患者の場合、恐怖を感じることもない。


情動反応は人によって異なる。そして、この相違は脳の相違によって生み出される。ただし、それは遺伝的なものではなく、その人の経験の産物であると信じるに足る多くの理由がある。そして、特に年齢の若い時期ほど、経験による変化が起こりやすく、環境によって脳が形成される余地が大きい。


ネガティブな出来事、それによって引き起こされるネガティブな感情から立ち直るのが非常に速い人は、怒りや恐怖等の感情を意識的にコントロールすることにも長けている。人がストレス下にあるとき、脳の指令によって副腎から放出されたcortisolというホルモンが肝臓に取り付く。cortisolが長期間高いレベルで存在すると海馬の細胞が死んでしまう場合があるが、上記のような立ち直りの速い人はcortisolの放出レベルが非常に低い。また、彼らは免疫系の働きもよい。例えばキラー細胞の活動が活発である。


(2) Three Poisons

Davidsonによる一連のプレゼンテーションの後、ダライ・ラマのリクエストにより、神経科学のフレームワークをベースに、仏教で言うところの三毒=瞋恚(怒り)anger、貪欲(渇望)craving、愚痴delusion(*)が議論のテーマとされることとなった。


*delusionは「妄想」で、日常的な「愚痴」の意味とはズレているような気がしますが、三毒について解説したいくつかのサイトによれば、ここでいう「愚痴」とは、「物事の正しい道理を知らないこと」を指すらしいので、これでよいのかもしれません。


心理学に関する文献の中で説明されてきた怒りには様々な種類がある。第一に、内面に向けられた怒り。第二に、外部に向けられた怒り。第三に、ある種の悲しみに付随する怒り。さらに、障害を取り除くための建設的な衝動や粘り強さを生み出す怒りもある。これらの分類は、いくつかの証拠に基づいて導き出されたものである。例えば、第一の怒りの場合、他の種類のネガティブな感情も関係して、前頭葉の右側が活性化する。他方、第四の怒りの場合、前頭葉の左側が活性化する。


暴力に至るような病的な怒りを発する人は、それがもたらすネガティブな結果を予測する能力を欠いていることがある。このような能力の欠如は、前頭葉だけでなく扁桃核とも関係があるようだ。最近の研究の中には、激しい攻撃性を示したことのある人は、扁桃核が激しく萎縮していることを示しているものがある。特に、複数の人間を殺し、自殺したCharles Whitmanの場合、解剖の結果扁桃核に腫瘍が浸食しつつあったことが分かった。


ドラッグ、ギャンブル等を含む、渇望に関する研究成果のほとんどが、ドーパミンの分泌に関する異常を検知している。最近の研究では、実際にドーパミン分泌のシステムに分子レベルでの変容が起こっていることが示されている。神経科学においては、好きという判断を行なう回路と、欲しいという判断をする回路を区別する。渇望の状態においては、後者が強化され、前者が弱体化しているようである。そして、さらにさらにと多くを求め、同時にどんどんその対象を嫌いになっていくのだ。


次に、愚痴delusionについて。ここでいうdelusionとは、感情のバイアスによって知覚力や認識力が損なわれ、物事をクリアに把握できなくなる状態をいう。扁桃核は、視覚情報が最初に受け取られる脳の主要な部分にまで遡って効果を及ぼす影響力を持っている。このため、ネガティブな感情が視覚情報の知覚にまで影響を与えうるのである。